私たちの強み

キャリアアップ事例 Case 03

Case 03EL系エンジニア 
山下 正晃 さんやました まさあき
1990年キャリア入社 52歳

希少な設備設計の専門家として、一歩ずつ。
「いないと困る存在」を、常に目指してきました。

これまでの
主なキャリア
1983年工業高校電気科卒業後、食品メーカー入社 1990年メイテックフィルダーズ入社
木工機メーカーで工作機器の電気制御設計を担当
1991年電気制御設計メーカーで自動車用加工機の電気制御設計を担当 1992年工作機械メーカーで自動車用加工機の電気制御設計を担当 2009年設備機器メーカーでプレス装置の材料搬送装置の制御設計を担当 2011年自動車用部品製造メーカーで金属加工機械の生産技術の立場で電気制御部門を担当 2013年工作機械メーカーで自動車用加工機械の電気制御設計を担当 2017年工作機器メーカーで自動車部品組み立て機の電気制御部門を担当

工業高校を卒業後、食品メーカーの工場で電気設備の保全保守を7年間担当した山下 正晃さん。「そこで工場と機械について多くを学び、以来、一歩一歩ステップアップするように設備設計の道を歩んできました」。高い学習意欲と向上心で、今や製造設備のエキスパートとなった山下さんにキャリアを振り返ってもらいます。

My Best Job欧米の最先端基準を学び、日本の工場設備の安全基準レベルも高めた

20年間お世話になった自動車用加工機器メーカーでの仕事が、今も鮮明に記憶に残っています。
1990年代から2000年代は製造設備が大きく変化した時代で、それに対応して素早く成果を出すことが制御盤を設計する私のテーマでした。中でもこの10数年で大きく変わったのが、「製造現場の安全」に関する取り組みでした。
その会社では、日本の主要自動車メーカーに加えて欧米の巨大企業にも機械を納めていましたが、海外企業からの安全に関する要求水準が、非常に高いのです。図面の描き方を細かく指定され、さらに次々と最先端の安全対策が求められました。たとえば加工機のカバーをロックしないと機械が動かないとか、異物が挟まったら即座に停止するとか。今では当たり前ですが、そのころの日本では職人が機械に手を突っ込んで動かしながら調整するような場面が普通にあったのです。
先方の担当者が来日し、カタコトの英語でやり取りをしました。ISOの存在意義も、この時知りました。技術的な難しさ以前に、日本にない考え方を理解しなければいけません。仕様が理解できないとその先の製造が何一つ進みませんから、とにかく必死で取り組みました。
結果的に、その時点での先進の安全性能を持つ装置を設計できたと思います。その後は同様の機能を必要とする日本企業向けの装置にも適用することで、日本の製造設備の安全性も高まっていきました。お客様には「製造ラインのオペレーターにも配慮がある設計」と褒めていただいたことも。設備設計における安全基準の面でお客様に大きく貢献できたことが、大きな誇りです。

これまでの経験の数々多彩なキャリアを積むことで、武器となる総合力を獲得

私のキャリアは一歩一歩ステップアップしています。最初に派遣された会社は木工機械のメーカーで、ピアノの鍵盤などの加工機の制御を設計していました。ここで加工機の初歩の制御設計や、いろいろなプログラマブルロジックコントローラ(PLC)を経験しました。次の会社は電気制御設計を専門に請け負う会社で、自動車部品の製造設備ラインの電気にかかわる設計すべてを初めて任され、現地に出張して調整するまでを担当しました。この経験が、次の自動車用加工機器メーカーで一気に花開いた感じです。
17年近く担当した工作機械の制御設計の業務がリーマンショックで終了になると、プレス装置の材料搬送装置の制御設計へ。この会社では他の会社から来た派遣エンジニアと並んで仕事をし、自分をアピールすることの重要性について考えさせられました。「いないと困る」とお客様に思ってもらうにはどうすべきか、必死で考える機会になったのです。
次の会社では、生産技術の仕事の中で、自社設備の装置を機械メーカーに発注するという、これまでとは逆の立場を経験し、クライアントの考え方についてより理解を深めることができました。
そして今、初めて組み付け機の制御設計からデバックまでを担当しています。今までやってきた「切る」「穴を開ける」とは違い、部品を「組み立てる」機械です。基本的には電気設計ですが、センサーの調整など、なんでもやります。ソフトウェアもある程度分かりますので、お客様には重宝いただいています。専門である電気制御分野に限らないメカ的な知識と経験を持っていることで、「ハード」にも「ソフト」にも対応できる。そんな総合力が私の大きな武器になっています。

エンジニアに必要なこと常に要求以上の結果を出し、求められるエンジニアであり続ける

実はリーマンショックが起きる前に、フリーの電気設計エンジニアになることを真剣に考えていました。個人事業主として仕事を請け負うエンジニアは今もたくさんいますし、自分にもできる自信があったのです。しかし、リーマンショックで仕事がなくなり、メイテックフィルダーズという会社のおかげで次の仕事に就けた時、あらためて「派遣エンジニアの価値とは?」と自問しました。
私のようなベテランになると、お客様はどんなことも「できて当然」と思うでしょう。その「当然」を上回るアウトプットを出さないと、「居てくれて良かった」にはなりません。私は常に「求められるよりも早く、求められる以上の結果を出す」ことを自分に課しています。定型的な仕事なら、2回目は1回目よりも早く終える。3回目にはさらに早く、そしてプラスαの工夫や提案を付加する。次のアウトプットに期待してもらえるよう、こちらも勉強し、自分を高める必要があります。そして、私の価値が高まれば、後輩たちへの道が開けます。これは個人事業主にはない喜びだと思います。私のキャリア形成をサポートしてくれた会社に、少しは恩返しをしなければ、と最近思うようになりました。
私にとって、生涯設計エンジニアでいられることは、何よりも大きな価値です。この生き方を全うするためにも、さらに勉強し、常に必要とされるエンジニアであり続けたいと思います。